アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』And Then There Were None, 1939

●青木久惠訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2010

その孤島に招き寄せられたのは、たがいに面識もない、職業や年齢もさまざまな十人の男女だった。だが、招待主の姿は島にはなく、やがて夕食の席上、彼らの過去の犯罪を暴き立てる謎の声が響く…そして無気味な童謡の歌詞通りに、彼らが一人ずつ殺されてゆく!強烈なサスペンスに彩られた最高傑作。新訳決定版。

●青木久惠訳 ハヤカワ・ジュニア・ミステリ 2020


 そして誰もいなくなった…。余韻を残しつつ静かに読んでみよう。 原題は“And Then There Were None”。 ‘And Then’で一回ためて,‘There Were None’と一気に読むのが正しい(と思う)。 とりつく島もないほど物語の終末をイメージさせるタイトルである。 でも,クリスティの80を超えるミステリ世界に手をつけようとするならば,「そして誰もいなくなった」から始めるのがいい。
 「クリスティ好きなんでしょ?読んだことないからいいの紹介してよ。」
 こう頼まれることが多い。 そして私はいつも迷うことなく,「そして誰もいなくなった」を薦めてきた。 逃げることのできない空間に閉じ込めらた数人の男女が正体不明の何かにひとりまたひとりと殺されていく……という展開は今やサスペンス小説・ホラー映画の定番になっていて,設定からして“面白い”のは当たり前。 この作品自体,戯曲化も映画化もされているから2度楽しめて,それも結末が違うというオマケつき(だから今回の舞台が初めてという方は小説版も読んでみてくださいね)。 それに“童謡殺人”というテーマや怪奇幻想的なムード,そして登場人物たちの心理的な葛藤など,他のクリスティ作品につながるいろんなエッセンスがこの作品には詰めこまれている。
 加えて「そして誰もいなくなった」に名探偵が登場しないというのもポイントが高い。 “小さな灰色の脳細胞”を駆使するエルキュール・ポアロ,“饒舌で詮索好きな老嬢”ミス・マープル,冒険好きのおしどり夫婦トミーとタペンス……と,クリスティが創造した主人公たちはみな魅力的だけど(私は「スパイ大作戦」ばりのトリックを仕掛けるパーカー・パインも好き),その個性故にクリスティ初心者は“ポアロ派”や“マープル派”に引き込まれてしまうことになる。 探偵役のイメージに縛られずにクリスティを読んでもらうのにはうってつけの作品なのである(でも2冊目にポアロもの読んだら,“ポアロ派”になっちゃうんだろうなあ…)。
 “まずは「そして誰もいなくなった」から…”と人にクリスティを薦め続けて10数年。 これが高じて4年ほど前からインターネットでクリスティの作品を紹介するホームページを公開している。 タイトルは「Delicious Death(甘美なる死)」。 クリスティ・ファンならピンとくる言葉を選んでみた。
 最初はクリスティの作品を箇条書きにしただけのページだったのに、全国各地のクリスティ・ファンの皆様から投稿やデータ提供の形で応援をいただいて、今では作品の内容紹介や登場人物リスト、読後感想など、盛りだくさんの内容に成長している。 インターネットに接続できる方は是非とも一度ご覧になっていただきたい。 リストの中からまだ読んでない本が見つかるかもしれないし、情報交換の掲示板ではクリスティの作品紹介や読後感想にとどまらず、イギリス旅行や紅茶の話まで話題は広がっている。 きっと、あなたにとってのクリスティ世界も広がるはずである。 私のページの他にも、クリスティをより深く知ることのできるホームページはたくさんある。 主だったものをあげておくので、参考にしていただきたい。
 「Delicious Death」は英語版のページも作成していて、こちらの目玉は国内外のクリスティ本の表紙ギャラリー。 自分のコレクション約800冊を(基本的に出版元の許可を得て)掲載していたところ、何人もの海外のコレクターからも画像データの提供があり、今では2000冊を超える表紙画像が集まってしまった。 彼らは、私のホームページをすべて印刷して、自分の蔵書と1冊1冊つき合わせ、載っていないものを見つけるとデジタル化して送付……という涙ぐましくも地道な作業を続けてくださっている。 クリスティが好きな人に悪い人はいない…なんて思いながら、ホームページを更新する毎日である。
(※2000年に天王州アイル・アートスフィアで上演された舞台のパンフレットに寄稿した“「そして誰もいなくなった」から始めるクリスティ”をそのまま転載しました)


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アガサ・クリスティ『ナイルに死す』Death on the Nile, 1937

●加島祥造訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2003

美貌の資産家リネットと若き夫サイモンのハネムーンはナイル河をさかのぼる豪華客船の船上で暗転した。突然轟く一発の銃声。サイモンのかつての婚約者が銃を片手に二人をつけまわしていたのだ。嫉妬に狂っての凶行か?…だが事件は意外な展開を見せる。船に乗り合わせたポアロが暴き出す意外きわまる真相とは。


 オールスターキャストで映画化された「ナイル殺人事件」(1978)の原作。 クリスティは二度目の夫で考古学者のマックス・マローワンに同行して何度も中東を訪れており、本作の他にも『メソポタミアの殺人』『死との約束』『死が最後にやってくる』『バグダッドの秘密』など中東を舞台にした作品がたくさんあります。 作中の犯罪トリックも群を抜いて鮮やかで、中東を舞台とする雰囲気の妙と人間関係の複雑さがこの作品の最もすばらしいところです。

 僕はこの作品に触れて(正確には映画を観たのが先)、クリスティにハマる前にエジプトに夢中になってしまい、ついにはエジプトでの遺跡発掘に参加するに至ったのですが、そんな意味でも大きな影響を受けた作品だと言えます。 でもナイル河クルーズは未体験。いつか、きっと。

 ただ、登場人物のほぼすべてに殺人の動機と機会があったという設定を緻密に構成し、ミスディレクションを多数配置しているため、とにかく長いです。 ピーター・ユスチノフがポアロを演じた映画「ナイル殺人事件」ではほぼ全員の犯行(可能性)シーンを再現するというサービス付きで140分にまとめるという離れ業がすごいですし、 デビッド・スーシェ版のTVドラマ「名探偵ポワロ」では登場人物を減らした上で103分にまで切り詰めています。 2020年にはケネス・ブラナー監督・主演で再映画化予定。楽しみです。


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アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』Absent in the Spring, 1944

●中村妙子訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2004

優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバグダッドからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる…女の愛の迷いを冷たく見据え、繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス。


 メアリ・ウェストマコット名義のロマンス小説。 犯罪は起きないし、探偵が謎を解いたりもしません。 それでも“クリスティらしさ”に溢れている作品だと思います。

 主人公はイギリスに帰る途中で交通事情による足止めにあい、早い話が手持ち無沙汰になってしまいます。 それまで自分の責務を果たすことに忙殺されていた日常が途切れ、突然、止まった時間の中に放り出されてしまう。 そんな状況におかれて初めて、彼女は自分の人生を振り返り、そして徐々に気がついてしまいます。 自分の人生が、自分が今まで思い描いていたような完璧なものでなかったことを。

 物証ではなく心理面から推理を進めるエルキュール・ポアロ。 日常会話の中のちょっとした一言から矛盾を拾い集めるミス・マープル。 何もすることがなくなってしまったら、誰しもが名探偵になるのかもしれません。 正解にたどり着けるか、真実に向かっているのかは別にして。 ちょっと怖いです。


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アガサ・クリスティ『ホロー荘の殺人』The Hollow, 1946

●中村能三訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2003

アンカテル卿の午餐に招かれたポアロは、少なからず不快になった。邸のプールの端で一人の男が血を流し、傍らにピストルを手にした女が虚ろな表情で立っていたのだ。が、それは風変わりな歓迎の芝居でもゲームでもなく、本物の殺人事件だった!恋愛心理の奥底に踏み込みながら、ポアロは創造的な犯人に挑む。


 まるで犯罪自体が関係者の憎しみと不安と優しさを糧にして、生き物のように変化・成長しているような印象を受ける作品。 犯人による犯行はただの起点で、ある人物の意思がその後の展開に目的と方向性を持たせ、別の人間がそれを受け取り、さらに他者の思惑がそれを捻じ曲げる。 トリック自体は鼻で笑ってしまうようなものだけど(これもクリスティにとっては計算内、というか肝)、事件を複雑にするのはトリックだけではない、ということ。 こうなると合理的な推理は無理な話で(クイーンだったら解決できないかも)、心理面からの推理を得意とするポアロだからこそこの難事件を解決できたような気がする。

 「危険な女たち」というタイトルで日本で映画化されていて、あまり出来がいいとは言えないんだけど、大竹しのぶが異様なまでにハマリ役。


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アガサ・クリスティ『予告殺人』A Murder is Announced, 1950

●田村隆一訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2003

その朝、新聞の広告欄を目にした町の人々は驚きの声を上げた。「殺人お知らせ申しあげます。12月29日金曜日、午後6時30分より…」いたずらか?悪ふざけか? しかしそれは正真正銘の殺人予告だった。時計の針が予告の午後6時30分を指したとき、銃声が響きわたる! 大胆不敵な殺人事件にミス・マープルが挑む。


 新聞に殺人予告が掲載され、住人たちは不安がったり悪趣味だと憤慨しながらも、“いそいそと”その場に集まってくる(この部分、読んでて面白い)。 そして、悪ふざけやゲームだと思われていたにしろ、関係者全員の注目の真っ只中で本当に殺人が起きてしまいます。 さあ、大騒ぎ。 よくもまあ、こんな大それたプロットを思いついたものだなぁ、と。 そしてこの大胆無謀な設定を、まったく無理のないストーリーとして収束していく構成力は、さすがクリスティ。 動機の設定にも抜かりなし。

 余談だけれども、作品中に“Delicious Death”(甘美なる死)という名のお菓子が出てきます。 僕が別サイトで運営しているクリスティのホームページのタイトルはここから頂いたもの。 チョコレートとバターをたっぷり、あと砂糖と干し葡萄も使った、「食べたら死んでもいい」くらい美味しいケーキなのだとか。 クリスティ生誕120周年記念企画としてアガサ・クリスティ協会がレシピを再現。 その名を冠する僕のサイトとコラボしてレシピを公開しました。

» ケーキ“甘美なる死”のレシピと写真


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アガサ・クリスティ『鏡は横にひび割れて』The Mirror Crack'd from Side to Side, 1962

●橋本福夫訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2004

穏やかなセント・メアリ・ミードの村にも、都会化の波が押し寄せてきた。新興住宅が作られ、新しい住人がやってくる。まもなくアメリカの女優がいわくつきの家に引っ越してきた。彼女の家で盛大なパーティが開かれるが、その最中、招待客が変死を遂げた。呪われた事件に永遠不滅の老婦人探偵ミス・マープルが挑む。


 何がすごいって動機の設定。 クリスティが書いた100冊近いミステリの中で、一番説得力のある殺人の動機だと思ってます。 「そりゃ殺すわな」というのが正直な感想。 そしてこの動機は、ある意味クリスティがこだわり続けた“あるテーマ”の延長線上で必然的に発生したものだと思う。 下記の映像化でも、この部分は充分に描ききれていなかったので、映画を見た人も、是非、原作を読んでください。

 映画化され(1980)、日本でも「クリスタル殺人事件」というトンデモない邦題で公開されているけれど、往年のハリウッドスターの華やかな同窓会という感じが否めない気がします。 展開の中心となる大女優マリーナ・グレッグ役はエリザベス・テイラー。 ラスト・シーンの貫禄は流石。 ロック・ハドソンとエドワード・フォックスもよかった。 あれ?褒めてる? あと無名時代のピアース・ブロスナンがチラッと映る。
 テレビドラマでは、ジョーン・ヒクソン版(1992年;マリーナ・グレッグ役はクレア・ブルーム)が原作に忠実でオススメです。 ジュリア・マッケンジー版(2010年;同リンゼイ・ダンカン)、 岸惠子版(2007年;同松坂慶子)、 沢村一樹版(2018年;同黒木瞳)あたりは印象薄い。


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アガサ・クリスティ『スリーピング・マーダー』Sleeping Murder, 1976

●綾川梓訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2004

若妻グエンダはヴィクトリア朝風の家で新生活を始めた。だが、奇妙なことに初めて見るはずの家の中に既視感を抱く。ある日、観劇に行ったグエンダは、芝居の終幕近くの台詞を聞いて突如失神した。彼女は家の中で殺人が行なわれた記憶をふいに思い出したというのだが…ミス・マープルが、回想の中の殺人に挑む。


 クリスティが得意とした“回想の殺人”の代表作。 何年も、ことによっては何十年も昔に起きて忘れ去られてしまったような犯罪を、関係者の証言(=回想)から推理していくもの。 当時その場に居合わせた人の話を聞きながら、誤解や思い込み、記憶の書き換えをひとつひとつそぎ落として事件を再構築し、証言のちょっとした食い違いから事件の真相に迫っていく展開はとても知的で興味深い。 物証がない分、会話中の伏線の張り方は緻密で、解決の際のインパクトも大きい。 そして長い時間、真実と共に潜み続けてきた悪意というものに恐れを感じないではいられないのです。

 ハヤカワ・ミステリ文庫版の解説の方が、作品の雰囲気がよく伝わってきます(他の作品もそうだけど)。

これこそ望んでいた家だわ!とグエンダは思った。ディルマスで見つけた小さなヴィクトリア朝風の売家。ニュージーランドから来たばかりの若妻はその別荘をすでに隅から隅まで知っているような気がした。そして、家の中の階段をおりかけたとき、いい知れぬ恐怖が体をかすめた。家には幽霊が出るのでは、あるいは誰か亡くなった人がいるのでは?部屋の戸棚の中から現われた古い壁紙を見て、彼女はさらに動揺した。この古い壁紙の模様をなぜわたしは頭に想い描くことができたのか…。回想の中の殺人を今に甦らせるミス・マーブル最後の事件。

 序盤のオカルト的雰囲気から、一転して新婚夫婦の過去を探る(傍目無邪気に見える)探偵活動へ。 そして、若夫婦の危険なゲームを案じるミス・マープルの本格始動、と読者を飽きさせない展開もいいのです。

 クリスティの“回想の殺人”は他に『象は忘れない』『五匹の子豚』『復讐の女神』などがあります。 いずれもハズレなし!


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アガサ・クリスティ『ABC殺人事件』The ABC Murders, 1936

●堀内静子訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2003

注意することだ―ポアロのもとに届けられた挑戦状。その予告通り、Aで始まる地名の町で、Aの頭文字の老婆が殺された。現場には不気味にABC鉄道案内が残されていた。まもなく第二、第三の挑戦状が届き、Bの地でBの頭文字の娘が、Cの地でCの頭文字の紳士が殺され…。新訳でおくる著者全盛期の代表作。

●深町眞理子訳 創元推理文庫 2003


 一見、無差別のように見える連続殺人の中に、その関連性と犯人の真の目的を探る“ミッシング・リンク”ものの代表作。 ABC順に予告殺人が進行するという設定自体にインパクトがあるし、展開の方もテンポがよくて読みやすい。

 小学生の時にあかね書房の児童向けリライト版で読んだ、最初のクリスティ作品。 その点でも僕にとっては印象深い作品。


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アガサ・クリスティ『検察側の証人』Witness for the Prosecution, 1954

●加藤恭平訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2004

街中で知り合い、親しくなってゆく金持ちのオールドミスと青年レナード。ある夜そのオールドミスが撲殺された。状況証拠は容疑者の青年に不利なものばかり。金が目当てだとすれば動機も充分。しかも、彼を救えるはずの妻が、あろうことか夫の犯行を裏付ける証言を…展開の見事さと驚愕の結末。法廷劇の代表作。


 ラストのどんでん返し、インパクトの大きさでは群を抜いています。 裁判劇が苦手な人でも、我慢してこの結末までたどり着くべし。 とはいえ、裁判の過程の検察側と弁護側の駆け引きも充分おもしろくて、飽きたりはしないと思うけど。

 ビリー・ワイルダー監督、マレーネ・ディートリヒ主演の映画「情婦」(1957)も大変いいですよね。


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アガサ・クリスティ『ゼロ時間へ』Towards Zero, 1944

●三川基好訳 ハヤカワ文庫(クリスティー文庫) 2004

残忍な殺人は平穏な海辺の館で起こった。殺されたのは金持ちの老婦人。金目的の犯行かと思われたが、それは恐るべき殺人計画の序章にすぎなかった―人の命を奪う魔の瞬間“ゼロ時間”に向けて、着々と進められてゆく綿密で用意周到な計画とは? ミステリの常識を覆したと評価の高い画期的な野心作を新訳で贈る。


 倒叙物といえばいいのだろうか、叙述トリックというか、とにかく作品自体に仕掛けがあります。 読んでダマされて下さい。 ああ、しゃべってしまいたい(笑)

 殺人犯といえば大抵悪いやつで嫌なやつで友達になりたくないやつなのは当たり前なんだけど、執念というか、悪意(の塊)というか、とにかくこの作品の真犯人はずば抜けてそんなやつ。


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